- ISSUE#02-1
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ESSAY – Contradiction by KURiO
August, 2021
August, 2021
Exhibition #02 “Biodiversity”に参加しているコラージュアーティスト・KURiOが、本展での作品制作をするにあたって考えていた、自然に対する「矛盾」をエッセイとして発表。
*KURiOの作品詳細はこちら。
■昔と今の川
ぼくの日課には朝散歩というものがある。いつも自宅から近い、小さな滝がある公園まで歩いていく。
公園に着くと、まずはラジオ体操をやって、滝と小川をひたすら眺めるのだが、これは、初夏のある晴れた日のことだった。気持ちの良い風が吹いていて、木の葉の一枚一枚が独自にゆらめき、上から降り注ぐ太陽の光を地上へ通したり、通さなかったりしていた。太陽の光が木の葉を避けて、まるでスポットライトかのように川底まで差し込む瞬間があった。その光景は息を呑む美しさで、しばらくの間、見惚れていた。すると、川底に何か黒い影を見つけた。……小魚だ! それまではこの住宅街を流れる川なんかに、魚なんていないと思っていたので、とても喜んでいた。すると、ぼくと同じように川を眺めていた、おそらく近隣に住んでいるのであろうおばあちゃんが、「昔、ここには鮭も上がってきてたんだよ」と話してくれた。そのおばあちゃんの話す「昔」に想いを馳せた。自分が住む町の川に、たくさんの魚が住んでいたならば、めちゃくちゃ心踊るんだろうなと思った。
近所のおばあちゃんの話は、いきなり僕を過去の記憶に誘った。それはおそらく、ぼくが中学生の頃の夏休み。今は亡き祖父から、お昼ごろ急に電話があり「今からジンギスカンをやるから来い」と招集がかかった。ぼくと兄は、小汚いサンダルでペタペタと音を鳴らし、歩いて1分の祖父の家に向かうのだった。ジンギスカンを囲みながら「じいちゃんって子どもの頃、悪さってしたことある?」と聞いた。するとスイカを盗んだのがバレて、全校生徒の前で村一番の悪童だと叱られた話をしてくれて、厳格な祖父のイメージとあまりにかけ離れたギャップに大笑いした。それから続けて、祖父は遠い昔の夏の話をしてくれた。夏になると子ども達の遊び場はもっぱら川だったと言う。魚を獲ったり、友達と遊ぶのが本当に楽しかったと話した。
祖父の話すその川は今もなお、自宅のすぐ近くを流れる川だ。しかし、ぼくには川に入って遊んだ記憶など、ほとんどなかった。その川は水量は多く、水流は激しく、安全に遊べるところではとてもなかった。だから幼少の頃は、ぼくがその川に近づくことすらも母親は嫌がっていた印象がある。
約60〜70年の歳月を経て、かつてたくさんの子ども達に愛された川は、滅多に誰も寄り付かない川に変貌してしまった。その謎に違和感を感じながらも、答えは探らないまま、祖父の話を最後まで聞いていた。
それから数年後。図らずもその謎の答えに辿りつくのは、地元を離れ、大学生となった時だった。たまたま古本屋で手にした一冊が、世界中をカヌーで旅をする、野田知佑さんという方の本だった。漠然と、カヌーやカヤックに憧れを抱いていたぼくは、その一冊を破格の値段で購入し、自宅へ持ち帰った。
その本には冒頭から「日本の川は、あと10年ですね。日本の川は、かたっぱしから、コンクリートの排水溝になっている」という一文があった。すかさず、ちょっと待ってくれ、と文庫本の一番最後のページを開き、発行年数を確認した。平成6年6月1日発行、自分が生まれたその年に発行されていた。ぼくは日本の川がすでに危惧されていた時代に生まれ、もうすでに、完全に手遅れのその時にこの本を手に入れていたのだった。動揺しながらも読み進めていくと、
「日本の川の多くは、洪水を防ぐための改修工事という名目で、両岸をコンクリートで固めたり、元々蛇行していた川を真っ直ぐにしてしまった。それにより、水流の激しさが増し、結果的に危険で、誰も寄り付かない川を作り上げる事になった」
といったことが書かれている。更に著者は、両岸をコンクリートで埋めてしまうことによる川の生態系の破壊について語った。
「川と陸地との間にある、土手というのか、川原というのか、定義の難しい不明確な地帯があり、その場所こそ生き物にとって重要なのである。なぜならそこには野草がたくさん生えていて、水中の小さな生物がたくさんいる。しかし改修工事により、この大切な部分の一切がコンクリートになってしまう。そうなれば、水中の生物にとっての餌がなくなってしまい、当然、数が減ってしまう。実は人間があまり重視しない、水辺の草も林も、その川に生きる魚にとっては命の一部であり、全てが複雑に関わりあって、そこに奇跡のように生物は存在しているのだ」
■人の意識が作り出す世界⇔自然
最近、YouTubeで養老孟司さんのある言葉に出会った。「自然とは、人の意識が作らなかったものと定義している」
ごく当たり前の言葉に、何かハッとさせられた。それから通勤時など外出する時は、その視点を持って街を歩くようになった。すると、今まで気にもしていなかった街にある全ての物が、人の意識によって作られた物だと気づいた。横断歩道に等間隔で引かれた白い線、信号、電柱、視覚障害者のための黄色い点字ブロック、地下鉄に貼り付けられた広告やポスター、企業のどでかい看板、全てが意味を持ち、どこぞの誰かが、思考して作った物のみが存在していた。
その気づきを得てから数日後に、自分の住処である街と自然がいかに対極であるという事を決定的に目の当たりにする機会があった。
ある日、ぼくが働くアルバイト先のお店に、一羽の小さな鳥が迷い込んできた。天井の方で飛んではひたすら旋回し、一向に出て行く様子がなかった。何とかしてあげたかったけれど、結局どうする事も出来ず、三日目にして小鳥は力尽きてしまった。それとほぼ同じくして、テレビでは野生のヒグマが街に降りてきて、取材班が追いかけている映像が、連日放送されていた。ヒグマはパニックに陥っている様子で、ひたすらに走り回っていた。その様子は、お店に迷い込んだ小鳥と重なって見えた。最終的には猟友会に駆除されて、ヒグマ騒動の幕は閉じた。
この二つの件により、野生動物が人間の意識で形成される世界と対面した時に、歪みが生じるということがわかった。小鳥が死してまで、建物から出なかったのは、鳥は人の作り出す意味になど左右されない存在であり、人間が出入り口と定めた穴の存在は、鳥には全く通用しなかったためだ。また、真四角に取り囲まれた店内の構造は野生動物にとって、あまりに不自然だったんだろう。おそらく、ヒグマにも同じような事が起きていたと考える。意味を求める人間と意味を必要としない野生動物には、大きな隔たりがあるのを感じた。
一方、人間の意識が、川や森という自然に介入した時にも、そこに存在する自然環境や野生動物に何かしらの影響が出るのではと思った。そうやって考える事が出来れば、改修工事により、魚が姿を消すのもわかる気がした。
これほどまでに自然とバッティングしてしまう、人間の意識が作り出す世界ってどういうものなんだろう。
人が思考し、決定するという行為は、頭の中に無秩序に漂うあらゆる事柄の一部だけを選択し、切り取る行為だ。そして、選ばれなかった物の全てを手放すという事にもなる。決定事項を現実世界で実行すれば、図らずも繊細で複雑な関係性を持ってして存在し得る自然を、否定することになってしまうのではと思った。
人間の行動には、複雑である状態を単純化するという側面があると考えてみれば、いつだか聞いたことのある「木々を切り倒した後で、いくら人工的に植林をしたとしても、一度姿を消した野生動物は容易には戻って来ない」ことに合点が行くように感じた。人間が行う、自然を意図的に作り出そうとするという行為に一種のパラドックスを感じ、あまりにも無謀な事のように感じた。
■人の抱える矛盾、自分の抱える矛盾
ここで自分が感じた絶望感は、自分の創作にも通ずるものがある。「自然」に対してあらゆる気づきを得てから、自分の作品は大きく変わっていった。それまでの自分のコラージュは、概念とまた別の概念とを組み合わせることによって作られていた。しかし、いつからか、その概念を乗り越えたいと思うようになった。例として、「スイカ」を「夏や海を連想させるスイカ」として見るのではなく、丸くて、緑で、縦に変な黒い線が入っていて……、という事実の方に目を向けたいと思った。意味や属性に囚われずに、その物をその物として見たいと思うようになった。より自然に近づきたいと思うようになって作品に取り組むものの、まだ、自分の作品はどうしても野蛮にはなりきれなく、意識をもってして無意識に近づこうとしている事に、矛盾と疑問を感じていた。
現在、自然環境を着々と破壊しつつある人間社会にどーにかしがみついて、ようやく生きている自分がいる。自然環境を思いながらも、破壊に加担してしまうジレンマで、やるせない気持ちになったりする。自然環境も自分の創作についても、理想を打ち立てることはただの絵空事で、価値のないものなのかな?と思い、何かにすがりたい気持ちにもなる。そこでまた、複雑である世界を簡素化させて、型にはめた考えを持とうという自分に気がついた。
まずは矛盾を受け入れよう。「矛盾は自然」だと言い聞かせ、矛盾を抱えながらも、ぼくは自然と創作活動に対して、執着心を持っていたいと思った。僕の小さな思いは、きっと大きく世界を変えることはないけれど、人間の意識で形成されている世の中だ、愛情や執着心は捨てないようにしたい。自分は無力だけど、たくさん間違えるけれど、いつか自分たちはより自然を尊重した世界を選択することが出来るはず。
街中に目をやると、大方自然を排除しながらも、ヒーリング効果として鳥や自然の音が重宝されていたりして、なんてあべこべな世界だ、なんて思っていたりした。養老孟司さんは、「忘れてはいけないのが、実は「人間」自身も自然である」と話をしていた。意識を保つには限度があって、それ故に、人は睡眠をとって無意識でいられる時間を作る。また、自然と触れる事で心と体の調和を得る事ができる。不都合や不合理を嫌う人間の正体は、実は自然そのものでもあり、人間が心地よく生きるには、自然が必要不可欠である。またしても矛盾に直面し、今度はなんだか嬉しくなった。
幸福にも僕の自宅の近くには、天然記念物に指定されている藻岩原始林がある。豊かな自然とそこを住処にする、エゾリスをはじめとした多様な生き物が存在する。ありがたいことに、ぼくにとって自然がどれだけ必要なものかを実感できる場所が、すぐ側にある。かつて豊かな川を失った祖父と同じように、このような場所が調和を失った静寂な森に変わらないようにと願う。今手にしているものだけは、大切にしたいと思った。
KURiO (August, 2021)
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